雑感

ここ最近いろいろあったし、なんなら現在進行形でいろいろと、こなしている。昨日は激しい頭痛で「肺炎の予兆や……ガグブル」と思っていたが、温かい風呂と、睡眠を取ったら翌日(土曜日)には治った。いわゆる疲れのピークというやつでしょうか。ひとまず安心しました。

寝る前に少し慰みのために文章を書こう。

 

・月刊誌が校了した。

今年に入って2冊目。新しい土地に来てからは・・・62冊目?かな? 前の会社やMOOK本などを入れれば100冊ぐらいの雑誌をつくってきたのだろうか。まだ月刊誌の編集者としてまだキャリアはペーペーだろうか。量と質どちらも大切だが、雑誌をつくればつくるほど、間違いなく雑誌製作能力は上がっている。錯覚かもしれないし、誰と比べた訳でもないから、驚くほどのろまな向上スピードかもしれない。ただ、そんな気がするし、実際誌面は良くなっている気がする。

こう言っちゃあなんだが、当時の誌面を世に出して、お金をとっていたのかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。一応いっぱしの罪悪感は感じながらも最近は「まあ俺に任せた会社の責任だわな」と思えるだけの肝っ玉もついてきたわけだが。

よくよく気をつけなければならないのが、全体的なレベルが上がったと同時に慣れが出てしまっている点だ。写真の置き方、タイトルで使う言葉、文章のリズム等々、すぐにこなれた手グセで進めてしまう。抽象的なイメージで恐縮だが、読んでいる(=眺めている)人がドキっとするような誌面を常につくれればと思っている。

 

・そして月曜日からMOOK本の校了が始まる。

特別増刊号、いわゆるMOOK本をつくっている(今週の金曜日が締め切りです)。冷静に考えてこのスケジュールってどうなんだ?と思う。編集者の友達が皆無なのでわからないが、月刊誌が校了したその日ぐらい、編集部には少しゆったりとした雰囲気が漂うものなんじゃないだろうか? 月刊誌が校了した次の瞬間に、俺は増刊号のラフを切っていた。

今所属している編集部でつくる雑誌の特徴はとにかく「見る写真の枚数」が多いこと。1冊につき、何千枚も見る。……いや、何万枚か。 ちょっと狂気的だと思うし、実際カメラマンにセレクトをお願いしていても良いとは思う。というか昔はそうしていたのだが、やっぱり最終的には自分で見たくなってしまうのだ。クオリティーをあげる(≒売り上げを高める)ためと言えば聞こえは良いが、自己満足の世界のように思えるし、非効率・不経済のような気もしなくもない。プロの編集者ならば、他人に任せた上で最高のカットを用意できるのかもしれない。

個人的にはいろいろな葛藤がありながらも、このDIY感が誌面の雰囲気をつくりあげて意外と良い形になっているのでは、という結論で気持ちを落ち着かせるようにしている。料理をつくるにしても他人から与えられた野菜と自分でしっかり選んできた野菜ならば気持ちが違うでしょう。なんならその野菜が他人がつくるのか、自分がつくるのかでまた違うでしょう。

じゃあ雑誌製作について、どこまで“自家栽培”にこだわるのかという問題は結構趣味的に考えてしまう。「じゃああれか?モニターの色味をこだわるために、パソコンも自作するんか?」と言われたらそこまでやる気概はないが、フォントはオリジナルなものを使ってみたい。少し話はそれますが、Numberの本文で使用されているフォントってあれなんですかね? あれ多分オリジナルフォントのような気がするんですがいかがでしょうか。

 

この話は長くなるのでまた機会があれば。

 

・編集という仕事に対する過剰な信仰

twitterでフォローしている同世代の編集者の中には、いまだに編集者という職業に対して過剰な信仰を持ち続け、“腐った自己顕示欲の煮こごり”のような文章を垂れながす輩がいる。自己顕示欲がないわけじゃないし、他から見れば自分も同じ穴の狢なのかもしれなせいが、そこまではひどくないつもりだ。ああはなりたくはない、そう肝に命じた次第である。これについてはまた今度。

 

・コミュニケーションについて

今日あったことのない人とライン上で連絡をとる機会があり、異常に長い文章を送ってしまった。多分普通に怖い、キモいと思われたはず。自分の意図することが正確に伝わっているかどうかが不安だから、そして文章のリズムを気にしてしまうと長々と書かざるをえない。自分としては冗長なつもりは一切ない。

反対に仲が良く慣ればなるほどどんどん文章は省略されていく傾向にある。とんでもない量の意味が込められた記号を駆使して簡素な会話を繰り返すのも好きだが、そういう関係性にある人間ともう一度長文のやりとりをするのもまたコミュニケーションのオツな部分なんじゃないかと感じた次第である。

最後の方は眠いから適当です。寝ます。

 

 

雑感

‪賃金を支払われている作業の大部分について雑誌制作だと一応は自負しているが、性格柄?色々な仕事をしている。ジェネラリストといえば聞こえがいいが、まあ器用貧乏なのです。

 

クリスマスの本日は、野球選手のディナーショーにお手伝いとして参加。まあ特別にやることがあるわけではなく、ぼけっとつったっているだけで、でかい見返りを期待してたわけではないが、弁当が支給された。

 

学生時代のアルバイトでも弁当が支給されることがたまにあったけど、食い意地がはっているせいで妙にテンションが上がってしまう。振り返れば社会人になってから弁当支給の仕事ってあまりしたことがない。

 

昔いた会社で対談を夜にセッティングした時に自分の分の弁当も手配した記憶が……。そのぐらいか?‬

 

‪自宅と仕事場以外ではTwitterしか社会を知らない激若輩者なので、間違っているかもしれないが、弁当支給の仕事と言えばテレビマン。テレビマンの仕事と言えば弁当。ご多分に漏れずマスメディアに対する憧れを少なからず持つ私としては、その弁当を渡された時にこれってテレビマンが食うやつだ……と感慨深い気持ちになり、手渡された弁当を恭しく頂戴した。

 

「弁当ぐらい誰でも食うだろ」と思うかもしれないが、その弁当を渡してくれたのがいわゆる芸能事務所の方だったから、僕がそう思うのもむべなるかな、その時の私の気持ち、押して測るべし。‬

 

‪ディナートークショーは無事に終了し、編集部に着いたのは21時過ぎ。今日は朝からずっと書籍販売の営業活動をしていたから、いつもの倍疲れた。これまた会場で渡されたリンツのチョコを食べながら、ちゃっかり会場でゲットした2つ目、なんなら疲れて食欲がないとの上司から強奪した3つ目の弁当も鞄に押し込めて自宅に帰った。‬

 

‪弁当支給なんてテレビマンは良い仕事をしているな……とTwitterを見ながら温めた弁当を食べ今に至る。なんの変哲もないただの弁当だが、それでもありがたい。弁当ぐらいで〝アガる〟なんて相変わらず安い魂だが、年末なので良しとしよう。